多様性とは?
[2019/5/6(月) 更新]
こんにちわ。
連休明けちゃいましたね。
少し休みすぎてしまいました。
今日からまた頑張っていきます!
今日の記事はいつもと少し毛色が違います。
GW中はというと、ひたすら映画を見たり、普段行かないような場所に出かけたりしてたわけですが、「Weekly Ohiai」をかなりの回を見てました。
UZABASEさんが運営しているNewspicksで配信されている番組なのですが、平成のダヴィンチこと落合陽一さんと各業界のスペシャリストが対談するという内容です。
その中で気になる回があったので少し自分の意見というか思っているところを書いてみようと思います。
その中で語られていたことの咀嚼の内容なので、まるっきり同じじゃねーか!と思われたらすいません。
なるべく同じにはしないようにします。
気になった回は「多様性をアップデートせよ」です。
株式会社ジーンクエストの代表である高橋祥子さんがゲストの回です。
去年の8月15日に放送された回なのですが、僕が10回分くらい見た中では一番面白かったです。
当時はまだ発表されていませんでしたが、令和時代になるに伴って、多様性がより重要になってくるというお話です。
多様性って一体なんぞやという話なんですが、超砕いて説明すると「いろんな人がいても良いよね」ということです。
その中で、僕が気になった点が2つありました。
- 多様性は主観でしかないこと
- 共感と多様性は全く違うようで、真反対なこと
1つ目の多様性は主観でしかないこと、は当たり前のようでこれからさらに意識できていない人が浮いてしまいそうだなぁと感じました。
多様性というのは単独性と表裏一体です。
ここからは高橋さんの受け売りです。
アジア人の男女が集まっている部屋は多様なのか、という質問に答えはありません。
日本人の男だけで普段暮らしている人にとっては多様です。
世界各国の男女、LGBTの人と普段暮らしている人にとっては多様ではありません。
つまり、人によって多様かどうかは変わっています。
その人の普段の抽象度によってその事象を多様であると見るかは変わります。
抽象度を上げればいつかは単独になる。
それが一緒にいる中で個性が認められているのが多様性のある集団と言えます。
性の問題と一つ切り取ってしまうと、LGBTが変であるように見えてしまいますが、人であるということに戻せば、共通点が見えてきます。
共通点を探すことが、多様化につながるという一見相反していることが起こるわけです。
その上で、10年後は人というところまで抽象度を上げても、一致しないことがあるんじゃないかと感じました。
いわゆる多様性として今議論されていることはほとんど一致と乖離で説明できると思っています。
LGBTの人は性的嗜好が少数派であるが、同じ人である。
障がい者の人は器官の形状が少数派だが、同じ人である。
外国人は文化的背景が違うが、同じ人である。
今僕たちは、人である、に戻せば、大概なんとかなってしまう世界に生きています。
もしアンドロイドができれば、その人たちの人権や権利が論争される時代が来ます。
アンドロイドは材料が違い、思考法も違うが、形は同じである、という状況がくるんじゃないでしょうか。
それって今まで経験がないことで、性別が云々とかいう問題がちっぽけになる程に答えがない問題になると思うんですね。
それが何年後に実現するのかわからないですが、もっと柔軟な頭をそれまでに鍛えておかないといけないなぁと感じました。
2点目の共感と多様の話です。
「共感性の高い多様性信者ほどタチの悪い人間はいない」
落合さんの発言です。
Youtubeのコメント欄で叩かれてましたが、真理であると思います。
共感性とは日本人文化です。
いいね文化であり、「だよね〜〜文化」です。
共感性の高い人とは、自分の感じていることをそのまま人に感じてほしい人です。
ヴィーガンはその傾向がありますね。
思想をもろにぶつけてくる人です。
日本人はまぁまぁ多くて、
「私がこう考えてるんだから、あなたもこう感じてほしい!」
と顔に出てる人ですね。
それが多様性と混ざると、
「私はこんなにみんなのことを認めているんだから、あなたも認めなさい!」
となるわけですね。
多様性とは、多様性なんてないという考えがあってもいいという考えです。
ややこしいですが。
もっとみんなが周りにいい意味で興味を無くし、人は人、自分は自分という考えを持って、他の人の意見も尊重できるようになればいい社会になるのになぁと感じました。
令和時代が進んでいくにつれて、多様化していくのは目に見えています。
人は人、自分は自分と割り切って生きていくと、うまく生きていけるかもしれませんね。
今日もありがとうございました!